2010年03月号『 屋久杉が年貢だった!? 』 Vol.05
木霊(こだま)

屋久島の 魅力に迫る! その5
『 屋久杉が年貢だった!? 』


江戸初期(1612年)薩摩藩主・島津氏は屋久杉の資源としての利用を狙いとして屋久島に代官を派遣、直轄領とし、その支配を強めました。
同時に屋久杉材を「年貢(ねんぐ)」と定めました。
本来、江戸の税金である年貢は米が基本でしたがあまり米の獲れない屋久島ではその代わりとして屋久杉の「平木(ひらぎ)」を藩に納めることとしました。 そのため、江戸時代には、多くの人が山に入って屋久杉を伐採したので、当時の5~7割の屋久杉が切り倒されました。
機械などない時代でしたので、巨大な屋久杉を小さく割って、人が背負って十数キロもの山奥から険しい山道を海岸へと運び出していました。



平木(ひらぎ)とは?


屋根をふくための短冊形の小板(長さ50cm×幅10cm×厚み5mm程)をいい、現地では、木の薄い板を瓦のように並べて雨風を防ぐ屋根材として使われました。
年輪に沿ってタテに割り易い杉の性質を利用して作られた平木は、海を渡り、鹿児島を経て、「薩摩杉」の名で主に関西方面に送られていました。
木目が細かく詰まっていて、樹脂分が多く、腐りにくい屋久杉の平木は高級な屋根材として寺社建築などの瓦の下地材として利用されており、薩摩藩にとっての貴重な資源でした。
なお、当時、米1俵=平木2310枚で換算しました。



 
平木の束、 平木づくり

水に強い屋久杉を活かす。平木のほかに、樽の材料や、板状の板木など、いずれも割り加工によりつくられていた。水回りに使用するものが中心で、水桶や洗い桶、魚の塩漬け用の桶、醸造用の箱、衣装箱、せいろなど様々なものに使われていました


代表取締役 八田欣也




      

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